母がわたしの教育に無関心だったのは、
自分自身を守るための術だったのではないか
先日のブログ記事のあと、
メルマガ記事を書いていたときに(※)
そんな思いが頭をよぎりました。
***
わたしの父は、
中小企業に勤めるサラリーマン、
母は、先述のとおり専業主婦。
両親とも大学は出ていません。
東大とかハーバードとか、
海外留学するとかっていうのは、
母にとっては未知の世界。
子どもが成長して自分の手を離れていく
自分の知らない世界へ足を踏み入れていく
母は、親の直感として、娘のわたしが、
そういった世界へ旅立っていくだろうと
感じていたのではないかと思います。
子どもの成長に
喜び、誇りを感じるのと同時に
寂しさ、不安もある
専業主婦だった母は、父とちがって、
社会との接点も少なかったので、
未知への不安や恐れが大きかったぶん、
無関心になることで、
寂しさ、恐れ、不安から自分を守っていた
そういうことなのかな、と。
***
このことをどう捉えるか、というのは、
人それぞれだと思います。
うがった見方をすれば、
母の無関心は、「逃げ」ともいえます。
子どもにとって、
人生を左右するであろう重要な選択に
関与することを放棄したわけなので。
ただ、母が自分を守る術というのは、
他にもあったと思うのです。
例えば、わたしの人生を、
母の知っている世界の中で完結するように
コントロールすることで、
自分の寂しさ、不安、恐れから逃れるとか。
(想像しただけでもこわいですけど、
これに近いことを無意識のうちにやっている
親御さんは多いのでは?)
***
無関心がいいとか、悪いとか、
そういうことではないのです。
わが家の場合は、結果オーライ。
わたしは、母の無関心のおかげで、
自分の進む道を自分で選ぶことができた。
つまり、母は自分を守ることもできたし、
わたしの人生を守ることもできたのです。
けれど、もしも、
母がわたしを自分の枠にはめ込む方を
選んでいたとしても、
子ども(娘)のわたし次第で、
わたしは自己肯定感の低い人間に
なっていたかもしれないし、
今と同じ結果になったかもしれない。
***
世間的には、母の子育ては、
おそらく成功の部類に入るのでしょう。
でも、母本人としては、
どちらかといえば、失敗なんですよね。
もう一方の当事者である娘のわたしは、
自分のことも好きですし、人にも恵まれて、
しあわせな人生だな〜って思っていますし、
母の、自身の子育てへの評価が低いことも、
わたしは「母の自慢の娘」じゃないことも、
全く気にしていないのです。
***
そう、母と子のケミストリーは、
「合わせて(やって)みないと
どうなるのかわからない」
そして、
「その結果の良し悪しの判断は、
極めて主観的」
つまり、
「不確実性が高い」
ものなのです。
だから、冒頭に、
「子育てはギャンブル?」
と書いたのです。
***
これを
「だからこそ、子育てはおもしろい!」
と取るのか、
「子育てって難しい…」
「責任重大だわ!」
と考えるのか。
人それぞれ、
リスク許容度が異なると思うので、
各人にお任せします。
ただ、少しでもリスクを減らしたい、
と思うのが人間、そして親の性。
そのためにできること、と言ったら、
ただ一つ。
「《母=自分》という変数のブレを
限りなく小さくすること」
だからこそ、
親としてというより、
まず、ひとりの人間としての自分
子育ての目標をどこにおくのか
世間でいうところの
「親の覚悟」であったり「一貫性」
こういったことが
問われるんだなと思うのです。
相手(子ども)を見ながら、
自分のさじ加減を調整していくことも
必要ですよね。
今日も、そしてこれからも、精進します。