こんにちは、ユキコ@アジアで働くワーママ(@SanoYukiko)です。
Twitterのリンクを律儀に入れているけど、全然つぶやいてないな。まいっか。
さて、今日も懲りずに「不快」シリーズです(笑)
決して広くはない家で家族5人(両親+わが家3人)の三密生活も1か月を超えました。帰国前の外出禁止生活を含めると既に2か月。
緊急事態宣言が解除されたとはいえ、まだまだ移動と行動の自由が限られており、気分転換も難しいので、わたしの不快な感情にまみれた生活も出口戦略どころか、突破口すら見えない状況です。
常識ってなんだ?
わたしは元来、好き嫌いのハッキリした性格で、「やりたくないことはやらない」タイプなのですが、両親や夫からみると、わたしは「わがまま」で「自分勝手」な娘/妻になります。
特に、現在のような三密生活だと発散する場もなく、「自分の思い通りに動かない娘」「いうことを聞かない妻」に両親と夫のイライラ、不満も募るばかり。
もはや当初の目的を忘れて、自分たちの母親像の押し付けや、「自分の言うことを聞かせたい」という家族からの圧がだんだん強くなってくるわけです。←あくまでわたし自身のの主観で、両親や夫が実際のところどう思っているかわかりませんが。
じゃあ、両親や夫の言うことを聞けば、その場は丸く収まるんじゃん?
って思いますよね。
わたしも、そう思って、10回のうち3回くらいは(少ない?笑)、言うことを聞くようにしていました。心の中で、不満と違和感を盛大に感じながらね。
「母親たるものこうあるべき」とか、「やりたくないことでも、やらなくてはいけないことがある」というのは、社会や共同生活において一般的に言われてること。それができないわたしは、「ダメな母親」「常識がない」と言われる。
でも、その母親像やらルールやらって誰が決めたのさ?
すれ違う母娘の主張
そして、昨日のこと。
うちの息子は、フィリピンでは安全と交通事情の関係で、自家用車で通学しており、自分で荷物を持ったり長距離を歩いたりすることがありませんでした。
日本の同年代の子どもたちと比べると、おそらく脚力もないし、たぶんメンタルもだいぶヘタレ。
来週から小学校が始まるのですが、相当の距離(+かなりアップダウンが激しい)をランドセルや水筒を持って通学しなくてはなりません。
ただ、息子が通う小学校には「登校班」なるものがあり、朝は高学年の子どもたちと一緒に登校することになっています。
母はそんな息子の通学を心配して、
- うちの息子には、荷物を持っての通学は無理だから、担任の先生に事情を話して、母親であるわたしが登下校に付き添うべき
- そうしないと、学校に行ったら疲れて何もできない
とわたしに言ってきました。
このことは、昨日、初めて言われたわけではなく、先週から何回も言われていたのですけどスルーしてまして、担任の先生からお電話いただいた時も相談していませんでした。
確かに、母の言うことは一理あると思います。
一方で、わたしは、「自分は付き添わないほうがいいだろう」と考えていました。
息子の性格的に、わたしがそばにいるとどうしても甘えがでてしまうので、多少荒療治であっても、子どもたちにもまれるくらいが丁度いい。
仮に、通学だけで疲れて学校での勉強に力が入らなかったとしても、物理的に学校に行かないことには話にならないので、(周囲の子どもたちの手を借りてでも)「自分の力で通学できた」という体験をしてほしかったし、それをほめてあげたいと思ったのです。
ひたすら無になってみる
母の主張を聞きながら、わたしは、ひたすら「無になろう」としていました。
「無になる」というのは、自分を空っぽにするということではなく(不快感にまみれているときにそんなの無理ゲー!)、
- いま、自分の中で何が起こっているのか、思考や感情に目を向ける
- その思考や感情についてジャッジしない
マインドフルネス(mindfullness)、自分に対してフルに注意や気を向けているといった方がわかりやすいかもしれません。
だから、わたしは、母の主張に対して、肯定も否定もしませんでした。顔の表情は能面のようだったと思うけどね。
決して自分の主張に同意しようとしないわたしに対して、母は最後にこう言いました。
ひとつくらい、人の言うことを聞いてみなさいよ
やっぱり本心はそこだったのか…。
不快になることを恐れない
この母の一言で気が付いたのですが、これまでの自分自身の言動を振り返ってみると、母にあれこれ言われるのが嫌で、自分の本意じゃないのに、母の意向に従ってきました。
わたしの場合、無意識にそうしていたわけではなく、むしろ波風を立てないための「処世術」だくらいに思っていました。
でも、これって、人生を車の運転に喩えるなら、
自分で運転しているつもりが、実はドライバーシートに母を座らせていた
ということ。つまり、操縦桿を母に明け渡してしまっている状況だったわけです。
不快になったりイライラしたりするのって、ネガティブなことだと思っていました。(まあ、いまこの瞬間も少なからずそう思っている)
その感情をなくしてしまえばいい!と思っていたけど、そうじゃなかったんだな。
だから、わたしは、決めました。
不快な気持ちになることを避けるのではなく、ちゃんと自分の声を聴こうって。
とりあえず、他者との関わりにおいてイライラや不快を感じることがあったら、
- この状況で、わたしはどうしたいの?
- これホントにやりたい?やりたくない?
と自分に問いかけてみることにします。
とはいえ、自分の意思を貫こうとすると、さらにトゲのあることを言われたり(母親失格とかね)、まあまあ家庭の雰囲気は険悪になりますので、これが最適解ではないかもしれません。
「無になってみる」を実践した先に、何が見えるのかわからないけれど、しばらくこれで、自分の不快感に対処してみます。
おまけ:仏教の三密
このご時世、「三密」といえば、「密閉・密集・密接」ですが、仏教の教えにも「三密」があるのをご存じですか?
「三密」は、仏教のなかでも、密教の教えで、
- 身密(しんみつ):身体・行動
- 口密(くみつ):言葉・発言
- 意密(いみつ):こころ・考え
からだ、ことば、こころの3つを整えることで、自分自身も生きたまま仏さまであることに気づくことができるようになる=即身成仏を達成することができるんだそうです。
一方、密教以外の宗派では、この3つ(身・口・意)は煩悩を生み出すものであり、避けるべきものとして「三業(さんごう」とも呼ばれているようですが…。
日常生活において、こちらの三密にもあわせて気を付けてみるというのもよさそうです。